ここは移動式居酒屋、読書をしようとする私が間違っている
ちくわ男と咀嚼音
私の耳に不快な咀嚼音が聞こえてくる。
「クチャクチャクチャクチャ。」
仕事の帰り、電車の車内での話である。
四人掛けの席、その不快な音は、私の隣に座るサラリーマン風の男の口から発せられている。
「クチャクチャクチャクチャ。」
このサラリーマン風の男、家に帰るまで我慢出来ず、帰りの電車内で晩酌の一杯目を早々と始め、耳にはヘッドホン、スマホのゲームに熱中している。
そして、片手にちくわ、つまりこの不快な咀嚼音はちくわを口内でかみ砕く音なのである。
「クチャクチャクチャクチャ。」
とにかく腹の立つ音なのだ。
私のような文学青年は電車内では、もっぱら読書と決めているので、その集中力を妨げられる音は、たとえ相手が、ただの擂り身であったとしても許し難い。
ヘッドフォンをしていることで、己の口から発せられている音が寸断されていることが問題である。
その結果、咀嚼音は必要以上に下品になるのだ。
酒のつまみというだけあって、ほんのわずかずつしか口に運ばない。
ほんのわずか、口に入れては、よく噛み、下品な音をまき散らし、ビールで流し込む。
この作業が先程から約10分、絶え間なく続いているのである。
ちくわ男へのいらつきを抑え込み、なんとか読書に集中しようとする私。
物語の内容をなんとかイメージしてみようと、試みる。
そんな私の頭の中のイメージは膨らむ気配を一切見せず、脳内は完全にちくわによって支配されていた。
今、もし私が脳内診断にかかれば、間違いなく、その脳内はちくわというキーワードで埋め尽くされるであろう。
横目で何度も、ちくわ男をのぞき、ちくわの残量を確認する。
私の読書はいっこうに進む気配がない。
ちくわの残量はわずかだ。
「一口でいってしまえよ、さっさと終わらせろよ。」
文庫本はかんぜんに閉じられ、ちくわ男に念を送り続ける。
なんとか、ちくわは完食されたようだ。
口内のちくわを全て飲み込む姿を確認し、ほっとする私。
駅到着まで、まだ15分ある。
やっと読書に集中出来そうだ。
閉じられた文庫本を再度開き、活字に目を走らせる。
不快な咀嚼音は消え、車内には電車の機械的な音と、人々の話し声。
これぐらいの音の中での、読書が心地いい。
「ガタンゴトン、ざわざわ、ガタンゴトン、ざわざわ、クチャクチャ。」
「クチャクチャクチャクチャ。」
消えたはずの咀嚼音が再び、ちくわ男の方に顔をむける私。
ここにきて、まさかのちくわ2本目。
1本で終わると思っていた私が甘かった。
「クチャクチャクチャクチャ。」
ため息と共に文庫本を閉じ、外の景色に目をむける。
凄まじい速度で走る、新快速電車。
流れゆく景色と不快な咀嚼音。
ふとななめ向かいの男に目をやる。
この男もビール片手にピーナッツを。
ここはどうやら移動式居酒屋のようである。
読書に集中しようとする私が間違っているのかもしれない。
aloha shigeru!!!