スマホがなければ、年間三百冊は本が読めると思う
文庫本の”あとがき”を読み終え、電車を降りて、駅のホームに降り立ったのは日付が変わろうとしている直前だった。
階段を下り、改札を出る。
熱風が深夜近くにもかかわらず吹き、熱帯夜とはこのことを言うのだろう。
そういえば、今日は日本の中でも京都が一番暑かったらしい。
自宅方面に足を向け、歩き出してすぐに気づいたのは、ついさっき電車の中で読み終えた文庫本は、昨夜購入したばかりの物だということ。
読み終えるにはあまりに早い。
芥川賞作家、羽田圭介の”隠し事”、TSUTAYAを何気なくぶらついていたら目に入り、気になったので、とりあえず買ってみたのだった。
長編ではないし、内容も読みやすい、確かに早く読み終わるのも当然のことのように感じられるが、それにしても早く読み終えた感が、あまりに強い。
休みの日ならまだしも、今日は一日仕事だったし、読書をしていた時間といえば、行き帰りの電車の中だけである。
片道、一時間四十分。そのうち、文庫本を開いていられた時間は一時間もないだろう。往復で読書にあてれた時間は二時間弱ということになる。
二時間あれば、と思う人も多いかもしれないが、ボクは読むスピードが早い方ではない。
中編小説であれば、三日から四日というのが平均的な読破時間である。
なのに今回は一日とかからずに読み終えてしまった。
違和感を抱えながら、駅から歩きだして五分。
思い出した。今日は自宅にスマホを忘れてきたのだ。
年に一度あるかないかのミス、今の時代スマホを忘れるようなミスを犯せば、自分の無力さをとことん痛感させられる。
時間がわからず、アラームもかけれないものだから、昼休憩でうかつに眠ることも出来ない。
それでも忘れたもんはしょーがないと、開き直り、一日スマホのことは忘れて過ごしたのだった。
スマホという、世界とハンパなく繋がってる感の強い物を持ち歩いていると、人々の集中力は情けないほどに低下する。
常に確認していなければ気が済まなくなるからだろう。
いつ届くか知れないメール。勝手に更新され続けるSNS。
こんな物に犯されていては、読書が進まないのも当たり前なのだ。
確認する必要がなくなったことで、目の前の読書にのみ、意識を向けることが出来たのだろう。
いつもとは比べられないほど、小説の世界に没頭出来たような気がする。
没頭によって生まれた加速力。
たった一日だけ、”脱スマホ”を経験してみて、感じたスマホの恐ろしさ。
スマホを川に投げ込めば、年間で三百冊は読める気がする。
ウルフルズの名曲”サムライソウル”の歌詞にある♪集中するっちゅうの~注入するちゅうの~オレは~♪
注入するほどの集中力をもって、物事と向き合いたいものである。
aloha shigeru!!!