無色と無職
3月の末日で仕事をやめた。要は無職になったのである。
「無色」いや「無職」という言葉には半端ないパンチがある。
それを自由だと言う人もいる。その一方で「いい加減にせぇよ!!」「これからどないすんの??」と罵倒し、自分より下の人間がいることに安堵の色を浮かべる人もいる。
今年で37歳・・・なぜにこんな事になってしまったのだろうか、友人の多くは家庭を築き、家を建て、この社会において正しい道を歩んでいる。
思えばどれほどの数の友人の結婚式でスピーチを行い、余興をしてきたことだろう。
いつの日か自分にもこんな日が訪れ、祝う側ではなく、祝われる側になる日、絵にかいたような幸せを掴み、生きていく日が訪れると想像した事か。
未だにそんな幸せは訪れない。
けれどそんな幸せを掴んだ友人達にも確実に失うモノがあったはずだ。
自分以外の誰かのために生きる日々、抜け出すことの出来ないジレンマ。
何かを「得る」ことは確実に何かを「失う」ことなのだ。
「得る」と同時に「失う」そして「失う」からこそ「得る」ことの出来る何かがあるのだろう。
今は予定のない日々を楽しんでいる。朝早くに起きて通勤電車に揺られる必要もなく、無意味な争いやそれに反発するための材料を考える必要もない。
あれは大人達の下らない虚栄心が作り上げた愚劣な争いであったと心から思う。
でも彼らはそれが正しいと信じ、これが生きる道だと信じてやまない。
そんな風に染まってしまえば楽なのだろう。そう慣れ切れなかった自分は残念なのかもしれない。けれどそこから離れた今、あの時感じる事の出来なかった多くを感じる事が出来ている。
今は会いたい人に会い、好きな所へ行って好きな事をする。心が穏やかになり、呼吸を出来ていると感じる。
海へ行き、素敵な先輩とコンビニ飯を喰らう。
自分が自分でいられる瞬間を感じて、夜は眠る。
「無色」ではなく「無職」なんだ。カラーははっきりしているから、それは一生変わらないだろう。そんな人間の選ぶ「職」ってなんだろうか。
「金が欲しくて~働いて~眠るだけ~」そんなミュージシャンの言葉・・・
「金があったら人生の8割は解決する、けど残りの2割が問題なんや」と綴った作家の文章。
こんな言葉達が脳内を駆け巡る。
今はまだ、「先」のことは考えないようにしたい。
休憩があってもいいだろう。長い人生だ。
こうやって文章を書くと救われる気がする。外に出す時期なのかもしれない。身の内に溜まったあらゆることを吐き出して軽くなる。
「フットワーク軽く」好きな言葉だ。思いのままに、明日を生きて行こう。
alohashigeru!!!