”私”からの脱却、”僕”もしくは”ボク”
書くって自由なんだ
”私”に違和感を感じだしている今日、これからは”僕”にしようかと考えている。
”僕”もしくは”ボク”。
今まで”私”が当たり前だったので、違和感がとても強い気がするけれど、考えてみれば、”私”などと日常的に使う機会はゼロに等しい。
より現実味のある言葉で、下らない日常を綴るには”私”からの脱却が必要不可欠と思えてきたのだ。
社会人としては当然の”私”という一人称、でも報告書ではあるまいし、このブログにおいては、社会人であるかなんてどっちでもいいことでだ。
こんなことに頑なになっていること事態が、もとある形を歪なモノへと変えてしまっているような気がする。
文章全体が硬く、柔らかさとダイナミックさを失っているのも、取って付けたような言葉が並ぶのも、私で始める文章だからかもしれない。
尊敬する多くの作家は”私”を使っている人が多いし、憧れの思いもあり真似てきたのだけれど、私に”私”、いやボクに”私”は少々重圧がきつかったのかもしれない。
誰かに思いを伝えるように、そして、人に話すかのように。
これらは文章を書く際にいつも心がけていたはずなのに、肝心の部分が現実とまるで違うことになっていたようだ。
”ボク”で始まる文章には若干の幼稚さを感じるが、それも”私”に対して大人のイメージを持ちすぎているからに過ぎないと思うし、慣れてしまえばなんてことはなく、自然な形に収まる気がしている。
なんだか、”ボク”がとても愛おしく、ドンピシャな気がしてきた。
よりファニー感を出すために、いっそのこと、”ボクチン”にしてしまおうか、いや、それは寒い。
ちなみに”俺”はありだろうか、友人との間ではもちろん”ボク”ではなく、”俺”である。
かなり偉そう感じがする。オレ様感が強く、一方的だ。
内容によって使い分けるべきかもしれない。
わからなくなってきたので、本を一冊パラパラと、尊敬するリリー・フランキー氏のコラムだ。
基本、”ボク”で書かれているが、”オレ”も頻繁に出てくるではないか。しかも一つの記事の中でも両方が飛び交う。
それなのに、全体がとてもしっくりきていて、違和感がない。
驚いた。文章って本当に自由なんだ。
それに比べ自分の文章の不自由なこと、硬くて当然だ。
”私”も”ボク”も”オレ”も好きに使えばいい。
ようは雰囲気、感覚でしっくりくるものを、深く考えずに選ぶことが重要なようだ。
aloha shigeru!!!